撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

その6 エピソード

 昼間は人通りの多いこの交差点も、夜も更けたこの時間には、
渡る人もまばらだ。車さえ、時折通り過ぎるだけ。
「渡っちゃおうか!」点滅を始めた信号をみながら、二人で走る。
急ぐ理由なんてない。ただひとつあるとすれば、あの人がわたしの手を
ひいたから?信号が赤に変わる。まだ半分も渡り終えてない。
急に手に力を感じる。中央分離帯の植え込みの前で、立ち止まる。
「急がなくていいから・・」そういって、振り向いたわたしをみつめる。
ふたりの腕の緊張がほどけ、胸が触れ合った。
なにもいわずにくちづけした。


「さっき会ったとき電話したでしょ?探してるのがかわいかった」
「あんなに近くにいるって知らなかった。そんな風に言ってなかった!」
「もう少し、あのまま見てようかな〜って思って・・・。」


 わたしも、不思議な気持ちだったのだ。ひとと待ち合わせをすると、
大抵わたしのほうが先に気づく。気づいてない相手の一瞬の顔をながめるのは
慣れているのだが、待っている顔を見られてたなんて・・。
・・振り向いたところに、わたしを見つめてくれている人のいる心地よさ。


 ふたりで歩きはじめた。暗闇のなかで、わたしだけ熱を放っているような
気がする。落ち着かない気持ちを隠すようにしゃべり始める。
「街角でキスしたのは4人、公園で2人と、プラットホームで2人と・・」
”昼下がりの情事”のオードリー・ヘップバーンのように、過去の恋人との
キスの経験をでっちあげる。なんだかはしゃいでいる。


「お寿司やさんでキスしたことは?」
・・・体中の血がほおに集まったような気がした。
「・・・あるの?」
「いいや。この間が初めて。」


 ふたりで吹き出した。大きな声で笑った。この世界にわたしたち
ふたりしかいないように。
 オードリー・ヘップバーンだって、お寿司やさんでキスしたことは
ないだろう。