撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

加賀美屋のためにやったこと(どんど晴れ)

 板前というものは、本来孤独なもので、自分の腕と包丁だけを頼りに
自分を必要とするところ、自分を高くかってくれるところを渡り歩く
ものなのかもしれない・・。今日の板長をみてそんなことを思った。


 柾樹がやったことも随分思い切ったことだったが、女将たちの前で
板長に「お願いします!」と頭を下げたのはこれは大したもの・・と
感激していたら、何だか板長は気持ちが通じたというよりは柾樹が
したてに出た・・というようにみなしたようでちょっとがっかりした。
 そうすれば、柾樹も・・・板長が仕入先から個人としてお金を受け
取っているという話まで言い及ぶ。そこまでいわれちゃ引き下がれない
と、加賀美屋を出ていく板長。だれが止めてももう覚悟は変わらない。
今日の料理は、お客さんは、というのにも「オレの知ったこっちゃない」
の一言。薄情といえばそうかもしれないけれど、一旦縁を切ったら
そんなものなのかもしれない・・とも逆に思う。それが、板前なのかもと。


 そんな板前の板長が、加賀美屋のために尽くしてきたというのも
本当なのだろう。もしかすると、大女将の時代から、板前のしごとを
越えて、男として、本来なら支配人や女将の夫が担うような仕事まで
影になり日なたになり、加賀美屋を支えて来てくれたのかもしれない。
 始めはこんなに働いているのだからこれくらいいいだろうという緩みと
あんなに働いてもらっているのだからそんなに細かいことを言わなくて
もいいだろう・・という気遣いとのほんのちいさなものだったのだろう。
それがいつの間にこんな大きな問題になってしまうのか、人の心の
弱さと、動き出したものを止めることの難しさを感じる。


 板場を出ていく板長を我が身を投げ出して止めるように土下座をする
浩司。さすがの板長の顔にも情けが見えた。そして夏美、思わず伸一が
「なつみ・・」とつぶやく。
 

 板長が浩司に「お前はおれさついてこねえのか」ときいたのは、加賀美屋を
捨てられない浩司を困らせるためでも、今まで育てたのに・・という
恨みがましさでもなかったと思う。だまっている浩司の髪の毛をくしゃっと
掴むように撫でた板長は、我が息子のように弟子を育ててきた優しい板長
だったにちがいない。おまえを嫌いになったわけでも、ましてや恨んだり
するつもりもない・・というかわりの精一杯の一言だったようにも聞こえた。


 柾樹はまちがっていない。だれももう手をつけられなくなっていた問題を
我が身を切り捨てるわけにはいかなくなっていたひとたちにかわってメスを
いれたのだと思う。だからこそ、女将環は板長をとりなしはしても、それ
以上に後追いすることはなかった。板長自らも、自分のしてきたことが
わかっていたからこそ、ここまで・・と加賀美屋を去ったのだと思う。この
場合、柾樹がやったことは、これからの加賀美屋のため、誰かがいつかは
やらなければいけなかったことなのだろう。今までやらなかったひとたちは
柾樹を責めることはできない。


 しかしながら、夏美が柾樹に敢えていうのは分かる・・と思う。いや、
できれば夏美だって、柾樹に向かってそんなことを言いたくはなかったと
思う。愛する人にはその人のおもいのままにいて欲しいし、そのひとの
影の気持ちが分かればなおさらそっとしておいてあげたいとも思う。しかし
ながら柾樹のやったことは、加賀美屋のために仕方のなかったことではある
けれど加賀美屋のものがとるべき態度ではなかった・・もっと本来のやり方、
急がないやり方があったはずだと夏美は言わなければならないのだろう。


 事が大きくなれば、メスを入れるほどの荒療治が必要となる。それは
ほんとにほんとの最後の手段だ。治すためには切り捨てられた人の傷が犠牲が
伴うことを忘れてはならない。そして、それを正当化して切り捨てたひとが
平気でいることになってはそれはどこかが歪んでくる。切り捨てたひとも
また、傷を負わなければならないのだ。夏美がただ見守れば、それは柾樹が
その傷をひとりで負うことになるかもしれない。夏美が柾樹にかけた言葉は
柾樹を傷つけるかもしれないが、その痛みはまた夏美もともに抱えるのでは
ないかと思う。加賀美屋の未来のために、誰よりもこの二人がいつも大切な
ことを忘れずにふたりで事に当たっていかなければならない。信頼し合って
いるからこそ、ずっと信頼し合っていきたいからこそ、敢えてきびしい言葉を
投げかけることもあるのだということが分かるだろうか・・・。