撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

 26

 あの男からの電話があったのは、その日の夕方だった。夕御飯でも一緒に
どうか?という誘いは、ごくさりげないことだったけれど、いきなり今日の
約束に承諾してしまった自分に少しばかり戸惑いを感じていた。そして、
そんな自分の心がどこか恥ずかしかった。自分で自分に言う。会社のひとと
だって、あいていたらその場で返事をしてその場で約束するじゃない。あの
男だけに特別な意味を持たせる必要などないわ。今日はちょうど飲みに行き
たかっただけ。飲みに行くのはひとりでもいいけど、食事をするのは、特に
夕食はひとりでは少し落ち着かないから・・・。


 そんなことを心の中でつぶやきながら仕事を早く片づけようとしている
自分に気づく。目を細めて蒼い海と波を思い出そうとしている。


 約束は7時。ちょっとした料理を出す店が多い、このごろ流行の通りに
つながるとあるビルの前。近頃はそこを待ち合わせ場所にしているひとたちが
多いとみえて、何があるわけでもないその場所は、ひとだかりができたように
混みあっていた。ビルのガラスの扉を開けてその人混みのなかに混じり込む。
人々は楽しげにお喋りをしている。ひとりなのに、何故だかその仲間に入って
いるように心が自然に浮き立ってくるのは、待ち合わせ独特の空気が伝わる
からなのだろうか。


 さっきまでためらっていた自分の心と、人混みに入る直前に感じたこんな
いっぱいのなかから見つかるのだろうか?というかすかな不安が、いつの間
にか、ゆうらゆうらと立ち昇って消えていく気がして、空に向かってゆっくり
としたため息をついた。そのとき・・
「今日は三日月だよ」
思いがけない近くで声が聞こえた。


 わたしはもう、驚かなかった。驚かない自分に少しだけ驚きながら。振り
返ってゆっくり笑顔をつくってから囁いた。
「これから膨らんでいく三日月なんでしょう?」


 潮の満ち引きも月の満ち欠けも絶え間なく続いているのだ。いまはただ、
海を眺め、空を見上げ、風に吹かれていようと思った。