撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

考える(どんど晴れ)

 客の食べたいものを用意してくれるのなら自分はジャージャー麺
食べたいという客。なんとかその要望に答えようとする夏美に、料理も
加賀美屋のおもてなしのこころ、夏美は板場のつくる料理を自信を
もってお客さまにお出しすればいいという柾樹。客に気を遣いながらも
どうか、味見だけでもいいですから加賀美屋の料理を召し上がって下さい
と客に伝える夏美。そののち、イーハトーブに案内してジャージャー麺
楽しむ。


 旅館を去り際に客がつぶやく。「・・客の方も考えなければならない」


 伝統だとか、格式だとか、そんなものはいったい何のためにあるのか?
けっして、箔をつけたり、威張ったり、威圧したりするためのものでは
ないはずだ。そんなものは、中身のなくなった抜け殻をありがたがって
いるようなもの。伝統も、格式も、突き詰めれば人の心がつないでいく
形のない大切なもので、それはその時代によって、変わるところと変わら
ないところを持ちながら・・・いや、大切なものを変質させないために
微妙に変化しながら絶えず続いていくものだ。


 おもてなしを受ける客の側にも、それを楽しむ資格は要ると思う。
それだけの老舗にくるのなら、受け容れる楽しみの心さえもっていたら
充分だとは思うけれど・・。


 人が何かを受け容れるとき、一番必要なのは、「信頼」なのかも
しれない。それと「安心」。ひととひととの関係であれば、「愛情」と
呼ばれるのかもしれないけれど・・。


 自分がそこにいることを許されること。歓迎されること。落ち着いて
くつろげること。自分の存在を脅かされぬこと。心地よさに満たされる
期待と実感。それは、清潔な部屋、美しいしつらい、心地よい空調、
美味しい料理、気持ちの良いお風呂、そしてなにより心のこもった
おもてなし・・・。


 そのすべてが揃っている・・という安心感が信頼できるという意味で
老舗旅館なのかもしれない。


 しかし、ひとはともすれば欲張りになる。自分の周りにある幸せに
気づかずに、不安になることもある。調和の平安を退屈と勘違いし
自分だけ特別扱いされることによって、自分の不安を満たそうとしたり
していることはないか?目の前にすぐ希望のものがでてこないと
途端に不安を感じたりして・・・。


 夏美とて、客に言われて焦った。板場での扱いは、ひどい・・と
一緒に思ってしまった。確かに、桔梗の間の客だけに行った特別の
計らいとくらべると、夏美の言葉に返した加賀美屋の板場でのみんなの
言葉は理不尽に聞こえる。


 しかし、それとて、加賀美屋の本道からすれば、桔梗の間への態度
のほうがおかしかっただけのはなし。特例を見て、じゃあ、こちらも!
というのは、心乱されている証拠なのだなあ・・と気づかされる。
 幸せや愛情はひととくらべるものではないではないか!


 来週が楽しみです。平治さんが環さんも(カツノさん同様)まっすぐな
ところがあるからなあ・・と言っていたのを思い出したりしました。