撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

気のやりとり

 よそさまのブログ(それもコメント!)からヒントをいただいて考える。


 すっごく料理がしたくなるときと、どうやっても思い浮かばないときとが
ある。新鮮な野菜や、美味しそうな魚を目にすると、ようし!これをどう
料理してやろうか(ほんとに料理するんだけど)と、闘志にも似た気合が
みなぎってくるのだけれど、駄目なときは、スーパーを何度うろうろしても
駄目・・。定番はずれなしの献立を見繕うか、いっそお弁当買って帰ろうか
と、なんとも淋しい限り。


 食べることって、本来、ひとと口にするものとの、「気のやりとり」の
ようなものではないか・・とおっしゃる方。何だか深く頷く。「命をいた
だく」とか言ってもいいし、もっと単純に「元気をもらう」ことをしている
と思う。


 誰かが、コンビニのサラダからはどうも野菜の力がもらえない・・という
ようなことを何かに書いてあった。それを読んだ時もなんだか納得した。
お腹がすいたときのエネルギー補給や、何品目食べる・・ってな帳尻合わせ
はできても、食べ終わったあとに緩んだ笑顔でごちそうさまぁ!って言える
ほどの幸福感は得られないのだ。ちょっとでも食べ過ぎると後悔するほど。


 コンビニも外食も弁当も、それなりの事情があったり目的があったり、
そんなそれがいい!と選んで食べるときはそれもまたいい。しかしながら、
基本はやはり自分の手で、自分の見えるものを、作って食べる・・それが
必要なんじゃないかと思ってしまう。それをきちんと出来てる人、または
幸福にもしてもらっている人は、たべものの持つ本来の力・・のベーシック
な部分を身につけていて、だからこそ、いろんな食べ方の違いが分かった
上で、それなりにバランスよく食生活をおくれるのではないかなあ・・
などと考える。


 もっともベーシック・・っていう点では何事も同じ。コミュニケーション
ですら、日々積み重ねているからこそ、しばらく忙しくて話せなかったり、
時にはシビアな話を固い言葉で戦わせたりすることもできるのだろうと思う。


 母親が昔、行儀作法をしつけるときによく言っていたこと、
「いざとなったらきちんとするっていってるけど
 ふだんからきちんとやってないようなこと
 いざというときになんか、絶対出来るわけないんだからね!」