撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

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 列車を降りたところで、今日の魔法はとけたように日常の主婦の
私に戻る。まっすぐ帰って近場のスーパーでお惣菜でも買って帰り
たいところだけれど、今日のこの時間ではそうもいかない。何分か
歩いてデパートまで行き、一日家を空けた主婦にふさわしいご馳走を
見繕う。ちょうど北海道の物産展などが開かれていたので、子供たちの
好きそうな海鮮のお弁当を買い、洋風のオードブルの詰め合わせの
パックをひとつおまけにつける。あとは家にお豆腐があったから
お吸い物でもつくって・・と、さっきまでの思考回路とはまるで違う
ところを使っているような気がする。


 家にたどり着く頃にはあたりは暗くなり始めていた。普通どおりの
声で「ただいまぁ」と玄関を上がりながら、自分で何だか違和感を
感じた。一瞬どきりとしながら、すぐ自分で気づいて笑ってしまった。
私がひとりで家の中の家族に向かってただいまを言うなんていう日は
これまでほんとに数えるほどしかなかったことに気づいたからだ。


 居間に入ると息子が目はゲームにやったままでおかえりと言って
くれた。すぐさま食卓の支度を整えながら「あれ?おねえちゃんは?」
ときくものの目だけでなく意識も奪われている彼ははかばかしい返事を
しない。しかしながら心配するまもなく自分の部屋から娘が出てきた。
彼女もおなかをすかせていたらしく、めずらしく一緒に台所に立って
くれる。簡単につくったお吸い物をお椀によそいながら今日はお父さん
は?・・会社の用事で遅くなるらしいわよ・・などと会話を交わす。


 お椀を三つお盆に載せたものを受け取りながら彼女が突然訊いた。
「お母さん、誰かと会っていたの?」
 一瞬、手が止まりそうになった。
「いいえ?どうして?」
「ううん、別に・・でも帰るのが遅かったから・・」
「今日はデパートに出かける時間が遅かったから・・」


 嘘はついていない。なにひとつ嘘など言っていない・・。しかし
ながら、こんなに胸が騒いだのはなぜだろう。いままで嘘をついたこと
がない・・などというわけはないのに。どんな嘘をついていた?自分の
心を偽るちいさな嘘。胸が痛んだことを隠すちいさな嘘・・・。
 それにくらべれば、今日のこのことは秘密だ。楽しかったことも
ドキドキしたことも、そして見知らぬ男性と食事をしたことも、何も
自分の心を偽るようなことはしていない。ただ・・とっておきのお菓子
をただひとり隠し持っているような、そんな心弾みのする秘密だ。


 いままでついた嘘が苦い薬を無理やり甘いと言ったようなものに
くらべると、今日の秘密はなんて甘い予感のするものなのだろう!
 そして・・どうして「予感」なのだろう・・と、もう何もなかった
かのように食事をはじめた子供たちを見ながら、ぼんやりと考えて
いた。