撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

信じて待つということ(純情きらり)

 桜子と八重の場面が心に残った。自分は死んだものと思ってくれ
と言い残して出征した守田。その覚悟を受けとめて見送った八重。


 桜子は、自分を重ね合わせ、きっと帰ってくるよ、と八重を静かに
励ます。桜子の達彦を思う心が感じられた。「仕方のないことは考えない
ようにしている」と言って、非難囂々浴びてた(どこから?)桜子
ですが、あのときは、わたしも、なんか幼いような気がして桜子の胸の
内ってやっぱり桜子くらいの人にしかわかんないかな?って思って
とくに深く取り上げなかったんですが、今日少しわかった。


 桜子は、「達彦が生きて帰ってくる」という願いや祈りや想いやら、
そういうものを、信じることによって結晶させたんだ。そして、それを、
揺るがぬものとして心のなかに持って、大事に大事に守っているんだ。
 ともすれば、心乱れて、どうしようもない不安に駆られることもある
だろう。そして、一番考えたくないことを考えてしまうことが、何より
恐ろしいし、そんなこと考えることが許せないんだと思う。


 だからこそ、希望だけを見つめて、達彦の帰りを信じて待つ。
自分に出来ることはそれだけしかないから。考えても仕方のないことは
考えないというのと、心配してないということは違う。祈ることしか
出来ないときには、ただ、祈る。悪い考えは入れずに、ただ祈る。
 

 桜子が幼く見えたのは、幼かったわけではない。しかし、その
信じる瞳は、幼子のそれのように、純粋で透き通って見えた。何も
知らない子供でもないひとが、そんな瞳をするには、しかも、その中に
明るさを宿すには・・と考えると痛々しくも思える。しかし、それは
桜子の持って生まれた性格の一部。あの桜子だからこそ出来ること。


 それともうひとつ。桜子は幸せだ。桜子には達彦がいる。桜子の
性格をすべて受け入れて、桜子の音楽への思いまでも受け入れて
愛してくれている達彦がいる。達彦との愛を信じている限り、達彦の
存在そのものを信じている限り、桜子の瞳は明るく澄んでいることだと
思う。達彦の帰りを信じて待つその心は、子供のように純粋だ。