撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

ひとを育てるということ(ちりとてちん)

 自分のことはなんとか自分でやっていくけれど、ひとを育てると
いうことは特別ちからの要ることだ。ひとと関わっていくだけでも
それはそれは大変なことがたびたび起こるというのに、じぶんが
相手を育てなければいけないとなると、それはまったく自分がもう
ひとりいるほどのエネルギーが要るというものだろう。そうそう
ひとを育てるためには自分の中にもうひとり別人格を持つくらい
の度量と余裕がいるんだろうなあ・・って思う。


 おかあちゃんが、喜代美の初高座の失敗を「ちっともきづかん
かった」というのはそれはもう名女優並みの名演技か大悪党並みの
しらばっくれかた。なにより凄いと思うのは、そんな不自然さに
気づかれようが気付かれまいが、娘がどんなに八つ当たりしようが
何もかも覚悟の上でただ受け容れることだけをしているところ。


 その日に、草若師匠が何とも渋い顔をしていたのが、ただ印象に
残っていたのだけれど、もう一度観て初めて腑に落ちた。草若師匠
は、一生懸命「叱る」覚悟をしていたのだ。おかみさんがいたとき
には、ぱーんと叱っても、おかみさんが自然にフォローしてくれて
いたのだろうけれど、ただひとりでいる今はそれすらもとても気に
なるところ。それでも叱るところは叱らなければ・・。まるで苦い
薬を飲む前の顔のように見えてきて何とも可愛らしかった。だから
こそ、喜代美が茶碗蒸しを作っているときに草々が飛び出してきた
一瞬の、自分の役割とられたような顔はまた面白かった。


 寝床に集まるみんなもそう。初高座の喜代美の姿を見守る人々
には、落語を楽しむ余裕なんかありません(笑)。我が子の初舞台
を見守る親のようだったなあ。失敗してもだれも何も・・声すら
出せなかったよな・・。ある意味、笑われるよりもきつい。
 ひとの失敗を笑ったり黙殺したりするひとびとはいくらでも
いるけれど、自分のことのように息をのんでただ耐えるように
見守ってくれるひとはそうそういるものじゃない。


 子供はそこんとこなかなかわかんないよね。自分のことでいっぱい
いっぱいですもんね。完璧な大人なんているもんじゃないことは
よく知っているけれど、自分を育てるのにそんなに大人が悩んだり
苦労したりしていることは意外と想像できない。
 喜代美に草若師匠が奥さんのかんざしを渡したこと。おかみさん
の形見のかんざしを兄弟子たちが喜代美にさしてやったこと。
これが、どれほど大きな意味を持つのか、本当に分かる日が来る
のはまだまだ先のことなのかもしれない。


 ただ、大人にとって、成長するひとを見守り、育てる・・という
ことは、大きな喜び、また新しい人生を生きるような喜びを感じさ
せてもらえるものだということも確かだ。それは、あたらしい恋に
出逢うような心弾むものなのかもしれない。