撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

生きていくこと(純情きらり)

 生きていくことは続いていくこと。取り返しのつかない悲劇もない
かわり、すっきりとしたハッピーエンドもない。それでもひとは
生きていくのだ。生きていくことそれ自体がとても幸せなのだと
時折ふと気づきながら・・・。


 笛子さん・・・もう、あなたのどうしようもない気持のやり場のない
押さえようのない・・なんていうんでしょう?土を掘りだしたときの、
とおるをやりとりするときの、桜子に「お姉ちゃん、いったいどうしたの」
といわれるほどの、形にならない、狂気すら思わせる、衝動・・・。
 わけもなくいっしょに泣いてしまいましたよ。


 みんないろんなかたちで、こういう心を持ってはいるのだろうけれど、
ここまで、突き詰めて、追いつめて爆発させるひとは少ないかも知れない。
 全部自分で背負ってしまうのよね。そんなに苦しいなら、背負わなきゃ
いいのに・・とかいいそうだけど、背負っちゃうのよね。好きでやってる
っていうのとは、微妙に紙一重分だけ違うんだ。好きでやってるんなら、
いつでも投げ出せるんだけど、そういうもんでもないし・・・。性分って
いったらそれまでなんだけど、役回りって面もあるけど・・。いえ、お芝居
のではなく、家族やグループの人間関係のなかの・・です。


 冬吾さんの言葉も、中途半端。さすが冬吾、今日は決めてくれたわね!
と行きそうな気がしたけれど、あれだけ悩んでいる人を救うには至らない
と思う。1週間分見て、彼が悪い人でもなければ、お父さんとして家族を
大切にしていることも感じられたけど、それでも、今の笛子を包み込む
ほどの余裕はないのよね。笛子が、意外と弱くって、心の中で冬吾にすごく
頼りたがっているのが垣間見えるのだけれど。冬吾は笛子を背負おうとは
していない。それが、かれの誠実であり、人間としての人に対する対し方
なのだろうとは思うけれど。
 どうも、笛子の視点で見ている自分に気づきます。ものすっごく笛子に
肩入れして、笛子の哀しみや歯がゆさを自分で増幅させて書いてる気がする。


 その中で、最後の場面、杏子が、「笛子おねえちゃんは、幸せだよね」
とつぶやくのは、ちがう方向から舞台を眺めるような気分でした。熱く
なってるときは、なによ、そんなこと!といって、独り者は気楽でいいわっ
なんて、すっごく後で後悔するような言葉を吐きそうになったりするけれど、
そういわれてみればそう。持っていないことは、気楽なことなのか、それとも
持ちたくて持ちたくてたまらないことなのか。達彦の安否もわからない桜子は
毎日どれほど気の狂いそうになる想いを抑えつけまぎらしここにいるのか
(いまひとつその描写が伝わって来なかったところにも、問題あり?かわりに
達彦さんの心配をしてくれてるひとが、全国にいらっしゃるようですね)
 杏子に言わせたか・・というところ。うまいよな。そいでもって、これが
来週の出会いの伏線なわけでしょう?
・・やすじさんのがっかりが目に見えるようです・・・。