撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

2-11

 たとえば、ひとを好きになるということはどういう感情なのだろう。
いったい、いつから好きなのか、そのひとの何を求めて好きという感情を
溢れさせるのか・・・。


 先輩のことは、日毎に好きになった。指揮をする指先を見つめている
うちに・・その瞳の先に視線を合わせているうちに、どうしてだかわから
ないけれど、焦点が合っていくように、好きだという想いが浮かび上がっ
てきた。そんな気持ちで眺めていたら、笑った時に出来る目尻のしわも
考えるときにくちびるをすぼめる癖も、パンを頬張るときの大きく開けた
口も、何の変哲もないスニーカーも、全部特別で、愛しいもののように
思えてきた。しかしながら、あの頃は、見つめるだけで充分幸せになれた。
 心をふわふわと飛ばして、先輩のことを考えるだけでよかったから・・
胸がしめつけられるほどドキドキすることはあっても、こんなにジリジリと
煎られるような焦燥感にも似た切なさはまだ知らなかったから・・。


 あの男の眼差しを不意に思い出す。最後のキスのあとの私を見つめていた
なんとも淋しそうな人恋しそうな、ちょっぴり目を細めてこちらを見ていた
眼差しを思い出す。と、助手席に座っているときに、耳の後ろから頭を
掴むように手を添えて私のことを撫でたあの男のてのひらの温もりを思い
出す。あの手のひらは、わたしになんて言ってくれていたのだろう。もう
いいよ・・悩まなくていいよ・・何にも考えなくていいから・・。


 ひとを好きになるときに理屈なんか要らないのかもしれない。逢えなくて
淋しい・・って思った時にはもう好きと一緒なのかもしれない。逢っている
時には、相手が何を考えているのか不安で落ち着かなくて、別れる時間に
なるとじゃあ・・って相手がいうのが悔しくて淋しくて、いつも不機嫌な
顔を隠して別れて・・・。


 それでもやはり、私でなく何かを懐かしがっているあの男を見たことも
忘れられないでいる。自分のことは棚に上げて、人のことは気になっている。
私はあの男のことを何も知らなくて、こんなに不安な気持ちでいるというのに
何も知らないあの男は、私のことを何も知らなくてもなんの不安も持って
いない・・それどころか、何故か私のことをお見通しのような懐かしそうな
笑顔を私に向ける。そんな男の前で、一瞬無防備になりそうな自分がまた
怖いのだ。


 それでも・・と思う。いつだったかドライブの途中で車を停めた。私が
そのあたりをひとまわりして助手席に帰ってきたとき、男はうたた寝
していた。その寝顔があまりに無防備で無邪気で、何だかじっと見つめて
いた。このままずっとこうしていても幸せな気分でいられると思った。


 何も求めなければ、ひとはただそれだけで幸せを感じることができるの
だろうか?幸せな気分を持っているくせに、その気分がそのまま保存でき
ないことに苛立ってこんなに不安になっているんだろうか?


 もう考えることもやめよう・・。もうすぐわたしの降りるバス停に着く。
仕事は早仕舞して、まっすぐに家に帰って来たのだった。いつの間にか
もう雪はやんでしまった。曇ったガラス窓に意味のないかたちを描きながら
外の景色を見る。帰ったら何をしようか・・久しぶりにメールを送って
みようか?それとも昔の手紙を探してみようか?明日は休みだし夜更かしを
するのも悪くない・・なんて考えている。