撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

当たって砕ける・・痛み

 この頃、この「当たって砕けろ・・よ!」なんて言葉を聞かないなあ・・
と、ふと思う。朝の「芋たこなんきん」の話を考えていて思ったこと。


 婉曲表現は、相手を思いやるための言葉だったはずだけれど、いまや
自分の責任をぼかすために使われているような気がする。それは、婉曲表現
ではなく、「主張が曖昧」と言わなければなりませんね。


 当たって砕ける痛みは、当たる本人が受けとめたはずだ。そして、不幸
にも砕けさせてしまった人は、敢えてその痛みを背負ってまでぶつかって
きてくれたひとに敬意を表していたのだと思う。


 何日か前、次男があまりに無自覚に生意気な物言いをしたので、ほんとに
久しぶりに手を上げてしまった。はじめは怒っていた彼も涙をうかべて
謝った。ちょっとびびっていたけど・・。子供を叩くのは薦められたもの
ではないけれど、自分の掌にいつまでも痛みが残るのを感じていた。言葉で
「言い過ぎた・・」と感じるよりもそれはなんと直接的なものだったことか。


 言葉は、甘く優しくも、辛辣に厳しくもなる。しかし、言葉は言葉だけでは
存在しない。ひととひとを結ぶものだ。人の感情や温もりをどうにかして
写し出そうと苦しみながら紡ぐものだ。人と直接ふれあい、ぶつかり合い
その存在を確かめ合うことなしに本当の言葉が生まれることはないと思う。