撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

想いと気配(純情きらり)

 今日の純情きらり、夢や幻などがいっぱい出てきた。おじいちゃんが
マサさんの幻をみながらあの世へといってしまったのなど、もう一番
あらわしていたもの。みんなが祝宴を開いているというのに、ひとりで
寂しい・・とちょっと思いそうになったけど、徳治郎さんの穏やかな
顔をみていると、それは表面にあらわれているものを見ただけ、本当は
一番会いたかったひとと、逢えてうれしかったんじゃないか・・なんて
考えてしまった。そして、それは何も、マサさんがあの世から迎えに
来たなんていうのじゃなくて、マサさんは、見えなかっただけで、ずっと
みんなのそばにいたんじゃないか・・・って。


 一時期、死んだ母の夢を見ることがあった。昔と変わらず、今の私の
世界に母が生きている夢だ。ああ、なんだやっぱりいたんだ・・と
安心する自分と、もう、死んでお葬式までだしたことを知っている自分が
いて、どうやったらこの母との生活が破綻なく送れるか、夢の中で
一生懸命考えている自分がいた。今だったら、そんな余計な心配はせずに
母といっぱいおしゃべりしたいなあ、と思う。私が会いたかったから出て
きたんだ。私が会いたかったことを母が察してくれたから会いに来てくれ
たんだ。・・・それだけでいい・・・そう思う。


 人の考えは言葉にすると難しい。達彦の思いやりを持った遺書ですら
ひとを絶望に迷わせる分かれ道になる可能性すらある。冬吾がなにも
しゃべらないことがずるいと思ったこともある。でも、説明できないこと
は説明できないし、すべて話し合えば分かるというのも必ずしも言えない
のだ。すべてを語らないほうが自分の伝えたい真実に近いこともあるのだ。


 自分が伝えたいことを削ぎ落として、洗い出して、それを大事に
持っていると、それは祈りにも似た「想い」になるのではないか?
 それは、つよくつよく願うとき、時空さえ越えるのではないかと
思う。


 若山さんのお姉さんが出てきたとき、あれ、出て来ちゃっていいの?
と、ちょっぴり思いました。許さないことで、忘れてはいけないことを
象徴しているような気がしたから。それでも、彼女の顔を見ていて、
ああ、彼女も生きていく決心をしたのだ・・という気がして、「幸せに
なってください」と言う言葉は、自分にも言っているのだろうな
と感じられました。失ったひとの淋しさを自分のなかに住まわせ続けながら
自分も生きていくことを決心すること。許さない決心と自分に向き合い
ながら生きていくこと。それは、淋しさや憎しみを支えにしながら生きて
いくことより、もっと大きな決断のいることだと思う。(杏子や鈴村の
生き方にも通じるところがあると思う)


 すべてを飲み込み、すべてを受け入れながら、純粋に立ち向かい
純粋に突き詰める・・・反対に見えることが、どこかでつながって
いるような、そんな不思議な気分になった今日の純情きらりでした。
 地球での水の循環や、物質をかたちづくる粒子の存在を考えて
しまいました。この世とあの世と言われるものですら、どこかで
つながっているように思えてしまいました。


 想いは時空を越え気配を伝える・・
 不安や哀しみや怒りではなく
 どうかしあわせを伝えられますように・・・