撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

芸術家って・・?(純情きらり)

 今日は朝2分遅れで見はじめ、先ほどようやく最初から見ることが
できました。昨日訪ねて下さった方中身がなくてごめんなさい。くじけそうに
なった私に励ましのコメント下さった方ありがとうございます。今日は
調子にのって2回書いてるよ!


 ところで、昨日の内容は相当見るのがある意味つらかったようですね。
冬吾さん、あちこちでぼろくそに言われてます。


 選ばれしものは、その才能のかわりに、多大なる重荷も同時に背負うことに
なる・・ような感じがあるんですが、それだけじゃなくて、男って、なぜか
仲間、とか、組織、とか、会合、とか、酒盛りとか、好きな種類の人が
多いですよね。冬吾が飲まず食わずで絵を描いてるんなら、それなりに納得
できるけど、何故かそのまわりの人の面倒まで笛子さんが見てるのが変よね。


 思い出すのは、市川ジュン「陽の末裔」のなかでのこと。そこでも、労働
組合や、新聞、という進歩的な人でさえ、男だけになると、女性蔑視の会話が
出てきたり、女を買うというような現実があったり・・。戦争反対の思想の
集まりでさえ、奥さんお世話になります・・と結局は女に給仕をさせて
酒を飲んでいたり・・。どんな思想も考えも、女の後ろには、命や子供と
いう根元的なものがあるのに、男の後ろには、社会や組織といった、形式的な
ものがあるような気がしてならない。


 おとことおんなって、本当には、分かり合えないかもしれないって時々
思う。それでも、理解したいと思うこの気持はいったいなんなんだろう?
一人で生きていく方が、こんな人と一緒にいるよりよっぽど気が楽!って
思うこともないこともない。それでも縁を切らないのはどうして?


 冬吾さんにとって、絵を描くってどういうこと?一緒にいるひとの機嫌
なんて、なんにもきづかないんだよね、彼は。肋膜に影を持ち、実家とは
ほとんど縁を切り、一時は画壇に注目されながらも、この時代誰に注目
されることもなく・・。田辺聖子さんの書いたもののなかに、「女は、
本当に愛されていると確信が持てたとき、別れを選ぶことができる」という
ようなことがあったけど、冬吾にとっての芸術も、永遠の恋人のような
もので、いいときは夢中だし、いまいちだと思いきれなくて、ずっと魂を
囚われているようなものなんじゃないかな?それを支えている笛子はたまら
ないと思いますが、彼女もまたその幻のような芸術というものに囚われて
しまっているのかもしれない。いつか、冬吾さんが納得のいく作品をつくる
ことができたら、その喜びを共有できるかもしれない、そして、笛子や家族
の方をまっすぐに見てくれるかもしれない・・・と。


 目の前にも幸せはあるのに・・・。桜子が、音楽学校をあきらめたときに
「音楽はどこにでもあると思います」とすっきりと言い切ったことと対照的
に思える。そして、音楽を身の内に宿しながら、現実を生きている桜子と
現実を生きてきたはずの笛子が、冬吾という芸術家と一緒にいるばかりに、
自分の分だけでなく彼と家族の分全部の現実を背負わされてしまっている
のが、なんともいえない。しかし、自分で選んだ道に関しては、笛子は一切
弱音を吐かない。ただ、戦争中で、甘いものも食べることの出来ない我が子を
不憫だ・・と。彼女は冬吾と一緒になったことをひとつも後悔していない。
後悔など、彼女のプライドが許すはずがない。彼女は、自分の力で冬吾を
支えることを、冷静な判断と熱い情熱で決めたのだから。職を失うのも、
戦争が生活や画家としての活動に影響を与えるのもそれからあとのことだ。
さすがの笛子も戦争がこんなに自分の行く手を阻むとは計算できなかった
ことだろう。
 ・・・一番戦争を憎み、平和を切望しているのは彼女だと思う。