撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

誇りを持って

 ジダン選手、今日はいろんなところで、注目されていると思う。この
私ですら、初めて注目してしまったから。いえ、昔から名前だけは知って
いたし、それなりに「かっこいいよな、頑張ってほしいよな」と思って
いたからこそ、今日の行動は許せなかった。


 相手選手に、相当挑発されていたよう・・とか、体調も不十分で、
大変だったとか、もう足がとまってしまうほど疲労していた、とか
いろいろ説はあるようだが・・・。


 それでも、最後の試合、勝つにしろ負けるにしろ、最後まで戦って欲し
かったし、それだけで充分に満足できるほどのことをこれまで積み上げて
きたはずだ。すくなくとも、ファンは、負けてもジダンのために残念がる
ことはあっても文句をつけることはなかったと思う。


 勝つことしかなかったのだろうか?もう自分の納得のいかないものしか
出せない気がして自爆してしまったのだろうか?それとも、極度の緊張
が一瞬制御できなくなった、自分でもわからない行動だったのか?


 サッカーと国民性の話を、以前新聞に書いていた方がいらしたが、
「自分のチームの他の選手がゴールを狙ったとき、決まれ!と祈るのでは
なく、跳ね返って俺の所に来い、俺がきめてやる!と思うのがサッカー
選手らしい」というような部分があった。


 仲間のために我慢する・・というのはサッカーらしくないのかも知れない。
でも、サッカーそのものに対してはどうなの?サッカーと魂の契約を結んだ
ような、そんな誇りはないのか?と思う。見事なヘディングシュートを決める
その同じ肉体で同じかたちで、反則を犯すことは、サッカーの神様(いると
したら)に唾を吐きかけることにはならないのか?もっとも、サッカーボール
に唾を吐きかけたという過去の選手もいるというのが、信じられないが。


 どの世界でも、その世界なりの、やり方なり掟なりがあると思う。それは、
普通の生活とは違うことがあるとしても仕方ない。それでも、人間として、
どこか美しいはずだ。なにかはちゃめちゃだったとしても、すがすがしさが
感じられるはずだ。


 サッカーの大物とはいえ、ジダンは、サッカーの選手というものは、誇りを
持たない人種だったのか、それとも、相手のあまりのひどさに、自分の最後
の試合だというのに、サッカーに見切りをつけてでも人間としての誇りを
とったのか。


 どちらにしても、サッカーというものに興味を持ったにも関わらず、なにか
サッカーというものからむしろ遠ざかってしまった自分を感じる。


 そのかわり、人間としてどう生きるべきか・・ということは、なにかしら
感じさせてもらった気がする。その意味で、ワールドカップにも、懸命に
戦った選手たちにも、大きな感謝をしたいと思う。