撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

こどもみたい(おひさま)

丸山のお父さん・・・


おそばを打ちながら想いが溢れるように涙が溢れてきてしまうところ・・
ああ
食べ物を食べさせることって愛をふるまうことのようだ・・と思う
うんまいと食べることはそれを受け取ることのようだ
食べること、食べさせることに関わらず
ひとは知らずにいろんなひとと、自分の持っている愛するこころを交わし合っている
最愛のひととはもちろんのこと、周りの大切なひと、身近の親しいひと
知り合った御縁のあったひと、顔もしらないけれどなんらかの繋がりで繋がったひと


こどもは・・・
より一層、あるときは軽やかに、あるときはひたすらに、それをするかもしれない
愛するこころを育てるために
愛するこころが成長しているまさにそのときだからこそ



「こどもみたい」と言われるおとうさんは
子どもみたいにたくさんの愛を、おとなになるまでずっと持ち続けてやりとりしつづけて
きっといつもさらさらと流れる綺麗な水の流れのように持っているのだろうな
それはまたまわりのひとも澄んだあいするこころを持ったひとにしてくれる



最後の場面でまた春樹兄さんを思い出して胸が・・・・


それでもきっと
それはただ思い出して胸が痛むだけではなく
彼がその生きてきた証で命を繋いでいっていることを知るエピソードになるのだろう
ひとは生きていく限りひとと御縁を繋ぎ続けるだろうし
それは本人がいなくなったとしてもまた巡り巡って世界を繋げていく
昨日、和成さんが戦死した方の話を陽子にしていたこともそう



いつか巡り巡ってあらゆるひとが繋がって
世界中のどこでなにかが起きても
世界中のすべてのひとが自分のことのように思えればいいのに・・
ひとはやっぱりどうしても知っていることしかわからないし
自分のことと思えないことにしか関われないところがあるから
世界中のいろんなところに自分の縁のある親しいひとがいる状況がつくれるようになって
いつどこでもひとつひとつのことが自分にとっても大切なことなんだと分かるようになればいい



そして愛を繋ぎ続ける・・・
自分なりのやり方で・・・




現在の陽子さんをもってして語らしめた
「ああいうひとすごく苦手!」は大きなメッセージだな
わたしもそういうひとすっごく苦手
しかしながら
時にそういう利口ぶって実のところ逃げて何もやろうとしていない人間になっていないかと
もういちど問いかけてみる・・・自分自身に問いかけてみる・・・



時に思う
こどもみたい・・・に始めから始めたい・・と
そう、いつもこころは・・・