撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

楽しい時間

あれからあのひととは会っていない
仕事なのか旅なのか知らないけれど、電話もメールもすぐの役には立ちはしなくて、
生きていることだけをお互いに確認しあう程度の日々が続いた
もうこちらから連絡するのは嫌になるからしないことに決めた
すると向こうから、時折、様子をうかがう電話が入って、
その最後にまるで結びの文句のように
「愛してる」をささやいてくれるのだけれど、
指一本触れることのできないひとに愛してるを返すのは
胸ばかりが苦しくなるから嫌いだ
愛してるってささやくときには、私のすべてがあのひとのことを待ち設けて
わたしの細胞のすべてがあの人に向かって開いていたような
そんな時間を過ごしてたから・・・
目の前にいない愛してるは切なさを連れてきて・・
そのうちには力なく萎れる花になった気分にさせられるのだ
そしてもっと月日が経つと、
ホントに愛してたのか、楽しい時間をくれるから好きだったのか
なんだか自信がなくなってきて哀しくなってきている


暇を持て余して仲間で飲みにいった
一次会の途中でひとりの男の子が声をかけてきた
「抜け出さない?二次会ふたりで行こうよ」
「どこ?」
「いいとこ知ってる
 54階のバーラウンジ
 きっと夜景がきれいだよ」
「ここから!?どうやって?」
「大丈夫、タクシーだったらすぐだから」
自分のためにタクシーつかってくれるのにちょっと魅かれた
いつの間にそんなこと考えてたのかな?って思ったら笑えた
いつも女の子はそこに連れていく・・なんてタイプの子には見えなかったから


特別のことをしてもらった時には
はしゃいで嬉しそうな顔をしていたら恰好がつくから好きだ
高層ビルのガラス窓からは退屈にならないでいいほどの夜景が広がっていた
なんということもない話を聞いて
そこそこの時間にそろそろ・・と席を立つ
店を出るときに通った場所から海が見えた
胸の中でコツンとなにかが音を立てた


帰りたい・・帰りたい・・帰りたい・・
なんだか頭の奥のほうが痛くなってきた
すぐにタクシーを止めてひとりででも帰りたかった
なのにその男の子は妙にご機嫌で手をつないで歩こうとしてる
あの角まで歩けばタクシーが拾える・・私の頭の中はそんなもの
そのときぎゅうっと手を握られて体の向きを変えられそうになった
思わず体を固くして顔をそむけた
嘘つきの私は楽しそうな顔をしてしゃべっていたから
「ごめん」なんて言えない
そのまま酔っぱらったふりをして「いやだあ!」って笑い飛ばして見せた
「どうして?だめ?」って困った顔を見せられても
笑ってごまかすしかない
そう・・私は嘘つきだ
大して楽しくないくせに楽しくなったらいいなあ・・って楽しいふりをしていたのだもの


楽しい時間をくれるから好き?
楽しい時間なんてそんなパックがあるわけない
ふたりでいるのが楽しいひととだけに
楽しい時間は訪れるのだ
どんなにシチュエーションが揃ってても
どんなに優しくしてもらっても
ふたりの心が揃わないとそんな時間は訪れない
ふたりでいても一瞬のうちにそんな時間が色褪せていくことだってあったじゃない!


あんなにあのひととふたりで笑えたのは
ふたり同じ気持ちで楽しい!って思っていられたから
それがどんなに不思議で貴重なことなのかいまわかった


「今日はありがとう!」
唐突にそういってその子を置いて走り出した
どこまで走るつもりだろう?
呆れて立っているはずのその子から見えなくなるまで・・
嘘をついた罰に痛くなった頭がなにも考えられなくなるまで
後を振り返らずに走ることにしよう
そして家に帰りついたらずっと溜めていた涙を全部流すんだ
空っぽになるまで泣き続けるんだ
もうちょっぴり潤んでいる街の灯りを感じながら自分にそう言い聞かせていた