撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

名前を呼ぶということ

 小学校に入ったすぐのころまで、自分の名前にちゃん付けした
ものを一人称に使っていた覚えがある。その頃から急に私・・と
いう言葉が聞こえてきて慌てて訂正した記憶が残っている。


 父や母がわたしのことをそう呼んでいたのだろう。親戚のひと
いとこたちも、いまだに逢うとそう呼んでくれる。しかしながら
小学校の途中で転校したわたしは、幼なじみという存在を持たず
友達でそう呼んでくれるひとがほとんどいない。


 そして、次にそう呼んでくれるひとたちに出逢ったのは、勤め
始めてから通っていた一軒のお店のマスターと当時のスタッフと
いうことになる。20年来の知り合いになってしまったひとたち、
いまではそれぞれ独立して自分の店を構えている何人かの人たちが
その当時と変わらずに、私のことをちゃん付けで迎えてくれる。


 ふと気づく。飲みに行きたいわけでもなくて、特に用事がある
わけでもなくて、それでも彼らの店に行きたくなるのは、もちろん
彼らにたまには逢いたくなるのではあるけれど、どうして逢いたく
なるかっていうと、わたしは名前を呼ばれたがっているのかも
しれない・・あの懐かしい呼び方で・・・。


 日々、色んなものを相手にし、色々な自分を身に纏い、その重さ
と、どこかに感じるちぐはぐさや白々しさを、大人になるという
仕方のないこととあきらめながら、時に、何者でもなく、ただ
まわりの人たちから愛されていた感触だけを感じて過ごしていた
あの自分を思い出したくて、あの懐かしい呼び方をされる時に
出逢いに、出掛けているのかもしれない・・・。