撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

文章というもの・・を考えていたら

 文章で気持をあらわすこと・・。時折その難しさに立ちすくむ。
文章だけでその世界を完結させるのならいい。どう思われても
今現在のわたしはこんなわたしです・・と、その文章を晒すしか
ない。あれは、わたしであってわたしでないから・・と笑ってすまし
ちゃうってのも、時と場合によってはあり・・だと思っている。それが
公の目に晒すことの怖ろしさと強み。


 もっとこわいのはプライベートの文章。手紙やメールや交換日記(今どき
あるんだろうか?)。あまりにライブすぎて、ひとつ間違えるととんでも
ない。若い頃は、どうしてあんなに友達と手紙のやりとりができたのだろう
いったいどんなことを書き散らしていたのだろう・・。


 先日いただいたコメントに文体のことがあったけれど、あまりに嬉しく
書いてあってくすぐったいほどだった。いやいやとんでもない、本当の
私は・・と考えていたら面白いことに気づいた。


 理路整然は理屈っぽさに、潤いはウエットに、瑞々しさは青臭さに・・
理屈っぽいくせに、どこか感情に流されて、いつまでも大人になりきれずに
いる自分が見えてきて笑ってしまった。わたしはわたし。自分の持っている
ものでしか自分の出来ることはないのだ。ただ、なんとか持ってるもので
出来るだけのものを作ろう、やっていこうとしているだけなんだ。その中
からいいところだけを掬いだしてあんなふうに言ってもらえるのってとても
嬉しい。瞬間的にでもそんな風に感じてもらえるのならとても嬉しい。


 生きていくことはきれいなことだけじゃ済まない。現実の世界での人との
やりとりは、優しい言葉と、きれいな笑顔だけでは、やっていけない。
 もちろん、自分の人生のなかで真剣に関わる気持のある人に対しての
ことですが・・これは。ただ、根本にはいつも忘れずにいたいと思っている。
 世の中は美しいはずだ。人間は優しく強くなれるはずだ。愛しいひとが
いる限り・・自分の生まれて来たことを感謝できる限り・・・。


 そこまで書いて気がついた。そんな風に考えることのできる私は幸せ
なのだ。どうして自分がそんな風に考えることができるようになったのかは
わからないけれど、多分、生まれてから今まで、自分ではどうしようもない
いろいろな環境も含めて、親から、さまざまな人から、出会った事柄から、
本や文章から、そんな風に考えることのできる何かをもらってきたのだろう。


 あるいは、亡くなった両親が、いなくなるかわりにのこしてくれた
プレゼントなのかもしれない。淋しさを埋めるには、愛を乞うのではなく、
ただ、愛しなさい・・と。世の中を、人を、自然を、そして生きることを。
 ひとは誰でもいつか死ぬのだから・・。どんな人間も、本当はひとりぼっち
なのだから・・・。


 感謝の心にかえて・・生きている限り愛を贈りたい・・そう思う。