撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

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 その人が連れて行ってくれた喫茶店は、何度も通ったことがあるけれど
気づかなかった地下にあった。広くない、薄暗い、階段を下りる。先を
歩くその人は、一度も私の方を振り返らない。階段を降りたところに
小さなスペースがあり、不似合いなほどに分厚い木のドアがその店の
入口だった。初めてそこで振り返ったその人は、ドアを開けて私を迎え
入れてくれるように先に通してくれた。


 コーヒーの濃い香りがまとわりつく。苦みを越して甘みを感じるような
濃密な香りがあふれている。そこでは、微かに香る煙草のにおいですら
そのコーヒーにフレーバーを加える役目をしているかのように自然に
受け入れられた。


 急にほの暗い空間に入った私は、視力とともに思考能力も少しばかり
弱ったように、差し出されたメニューをみるのもそこそこにウィンナー
コーヒーを頼む。同じテーブルにつきながらも、何を話すでもなく、
ふたりで向かい合っている。それでも、初めての店は、私の好奇心を
満たすほどに不思議な暖かい空気と、めずらしい品物の数々が存在し
黙って眺めているだけでもなんの不都合も感じなかった。私がコーヒーを
飲み終わり、口のまわりについた生クリームまで舐め終わったときに
その人とちょうど視線があった。ずっと私をみていたような落ち着いた
視線と、声で、「あの絵を描いた人は、いったい何がほしかったんだ
ろうね・・」とつぶやく。


 それは、わたしがあの場所に立ちつくして長いこと考えていたこと・・。
初めて出会ったこの男の人から、私は視線が離せなくなってしまった。