撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

母の夢を見たこと

 先日、母の気配の夢を見た。今日、母の夢を見た。何故かごちゃごちゃの
家の中、自分のナレーションで「こんな年になるまで母と一緒にいることが
出来るなんて・・」とはいる。片付いてない部屋も気にせずに一人コーヒー
を淹れている母。あっいたんだ・・と私。あれっコーヒー一人分しか淹れて
ないよ、と母。いい、いい、先に片づけちゃうから、片付いたら部屋見に来て
ね!とわたし。あとは、家の中をまわるわたし。なんだか少し様子が違う。
いまの家具と懐かしいけれど見知らぬ家具がいっぱい。片づけたらいい感じに
なるかも・・まるで、おじいちゃんと赤ちゃんが一緒にいるような、部屋だな
・・なんて思っていた。


 起きてしばらくぼーっとしていた。母は何のために現れてくれたんだろう?


 家と家具が母の思い出そのもののような気がした。母が自分で捨ててきた
家具まで、一緒にいたような気がした。別れたくなかった家具や家もあった
ことだろう。母の青春にも戦争は挟まれている。そうすると、あまり自分の
生きていくことに執着など感じたことはなかったつもりだが、なるべく
飽きがこなくて永く使えるものを・・と家具を選んできたわたしは、自分が
思う以上に生きていくこと、もしくは生きていたことを残すことに強い想いが
あったのか?と考えさせられ、気づかされた。・・そうなのかもしれない。


 あとは、人の記憶の不思議さ。生まれてからずっとの12月が、記憶の
なかに積み重ねられている。去年はめちゃくちゃ忙しかった。考える暇も
ないほどひとりで走り回っていた。・・そして、この部屋はひとりだった。
仮住まいをして、その家とこの家と、いろんなところを走り回っていた
あいだ、わたしの寝ているこの部屋は、大事な荷物を抱えたまま、扉を
閉ざされてひとりきりだった。ほかの部屋が出来上がったあと、ようやく
ふすまを替え、畳を替え、壁を塗り替え一足おくれて完成した和室だった。
なんだか、そうだね、やっとまだ1年なんだねと意味もなく部屋に話し
かけてみたりする。母に話しかけるように。


 そして、現在の不思議。どこかで何かが違っていたら、この家で母と
ふたり暮らしている・・という現実もあったかもしれない。意識すると
しないとにかかわらず、わたしたちは無数の選択肢の中から、偶然にも
必然にも満ちたひとつを選び取りながら生きている。
 その積み重ねのいま・・・。


 体調が悪くて一眠りしていたのだけど、母に話しかけられたような
気分になってしまった。今の私を母が見たらなんていうだろう?大丈夫
だから、大丈夫だから・・そう、母につぶやきながら声を出して泣いて
いた。そう、大丈夫、大丈夫!と母に背中をさすってもらっているかの
ように感じながら。


 私が親にもらった愛情も、わたしが与える愛情も、使ったからと言って
なくなってしまったり減ったりしたりするものではない。そんなものが
あったら、それは本当の愛情なんかではない!大丈夫だから・・母のその
声を聴きながら、思うとおりに生きていこうと思う。安心して休める家を
支えるためにも、この家に残る、母たちの愛情にわたしの愛情を加えて
いこうと思う。起きよう、生きよう、そうつぶやいて午後の仕事を始める。