撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

なりたい自分

 朝からどんなテレビを見るのかは意外と一日を過ごすのに大切かも・・・。


 今日はついに朝ドラ「ウェルかめ」観るのやめました。でもちょっぴり気になって記事を書いていらっしゃるブログにはいくつかお邪魔しましたが・・。何だか、不評がむくむくと束になって暗雲のように垂れこめている感じ。これはあまりいい状態ではないかもしれない。面白く書いてくださっているブログを読むのはいいとしても、不満のコメントは見ないようにしようかな・・その気持ちが分かるだけに引きずられますもん(笑)。
 おもしろいのは、かたやすごく好意的なブログもあること。さらりと明るく書いてあるものは「ああ・・心の広い人が書いていらっしゃるのだろうなあ・・」と、おもうのだけれど、最高です!とか、傑作だ!とか書いてあると、???そう???もしかしてN○Kの関係者が名前を伏せて書いてるんじゃないでしょうね???とか思ったりして・・・(笑)。


 今回の朝ドラで気づかされたことは、自分の中にも弱い部分、醜い部分が絶対にあること。ひとの悪口や仕方のない愚痴はいいたくない人なのですが、そんなマイナスの発言でも、意見が合ってうなづきあう仲間がいると、黒い楽しみになりそうなこと。でも、それはその場で言い散らすだけで、後に残るのは疲れだけなのですが・・・(と、わたしは感じる)。


 昔の自分の朝ドラのレビューの中に印象的な言葉を見つけた。「ひとりの孤独に耐えられなければ、本当のひととの関係はできないだろう」と。ときには孤独に耐える必要もある。空白の時間をその時間のままに感じる必要もあるのだろう。習慣と惰性は違う。必要な習慣と、取捨選択の必要な日課とも違う。もういちど、自分に何が必要なのか考えてみようと思っている。何を選ぶか、何を捨てるかは、なりたい自分に近づくためには必要な作業だと思う。