撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

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 駅を出ると、青空が高い気がした。駅前の道をお目当てのレストランの
方向だけ意識しながらぶらぶらと歩く。カバンひとつで、何もないのが
心許ないほど身軽だ。


 ほんとに一人旅なんだ・・


 小さな感慨をもって心の中でそうつぶやく。子供が手を離れて、何年か
ぶりにひとりで街に出掛けたときもちょうどこんな頼りない幸せを感じた。
それまで何年かというもの、出掛けると言えば、オムツからティッシュから
お茶をいれたちいさな水筒や、ちょっとしたおやつだとか、時には折り紙
だとか絵本だとか、何処で何が起こっても、また、どこで暇を持て余しても
なんとか出来るくらいのものを持っていないと安心できない移動というもの
ばかりしてきたから・・。


 本当は、子供にだって少しくらいの不自由さを味あわせたほうがいいの
かもしれない。意外と子供というものはつよいもので、親が安心してさえ
いれば、けろっと落ち着いているものだ。しかしながら、周りの大人の方が
それを許さないほどに忙しい世の中になっている。それでも、この年に
なれば、許さないといってもそんなに世の中のひとは冷たいわけでも、また
逆にみんながみんな子供や赤ん坊に関心を持っているわけでもないという
ことに気付く。声を掛けてくれるひとは、口うるさいことを言うようで実は
とても子供に関わってくれようとしている気持ちを持っている種類の人間だ
し、はじめから手助けする気もないひとたちは、多少のことが起こっても
ある意味我慢強く無視してくれる。本当に子供で困ったことのある親なら
それくらいの違いを見極める目は育っている。
 しかしながら。自分の子供が見知らぬひとに迷惑を掛けているという状況
が我慢できないひとにとっては、子育ては地獄だろうし、子供を連れて人混み
に出掛けるなどと言うことは苦行でしかないだろうと思う。そんな風に考えて
いる父親と一緒に出掛ける母親というものは、この世で一番辛い存在かも
しれない。
 そうして、自家用車で出掛け、家族ぶろに入り、個室のレストランに入り
家族旅行という名の、家族移動を繰り返しているわけだ。どんな社会に置い
ても、妥協案というものは必要なのだから仕方がない。妥協・・ではなく
それはもう、旅とは呼べない別のものなのかも知れない・・とは思うけど。


 とにかく、今日の私の数時間は「旅」だ、と思っている。金鱗湖の近くに
出た。目当てのレストランはすぐそこだが、もう少しお腹を減らしてから
はいろうと考える。目新しいギャラリーが目に入った。入館料を払って
建物に入る。作品は階段をのぼった二階に展示してあった。下のにぎわいが
嘘のように、その建物にはだれもいなかった。ガラス窓から見える風景が
何枚も並べられた縦長の絵のように感じられる。森の絵のようだ。近づいて
見下ろすと、今あるいていた道が見える。遠くに山も見える。絵を眺めながら
同時に、窓からの景色を独り占めしている贅沢にうっとりとなった。今日は
青空も、形の良い雲も、気持ちの良い風も、樹の緑さえ、私のために用意
されたような、そんな豊かな気持ちになれた。


 ゆっくりと楽しんだあとに、一階のショップに気付く。いろんな木工品や
アクセサリーや、画集などが並んでいたけれど、今日の旅に相応しい小さな
記念の品をもとめた。子供がクレヨンで書いたような色とりどりの花束を
握っている絵のついたブックマーク。さりげなく買ってバッグの底に納めた
けれど、勝手に顔がほころんできそうになって困った。一人旅のただ一つの
欠点は嬉しいことが起こっても誰にもそれが言えないことだ。今この時に
この気持ちを誰かと分かちあえればいいのに・・と思う。但し、ほんとうに
同じ気持ちになれる人と・・という条件をつけることは、それ自体がいちばん
贅沢な望みなのだろうか・・・。