撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

 6

 十一月の連休が終わったあとのある日だった。いつもはみんなが
出掛けてから廻す洗濯機のスイッチを朝一番に入れる。朝食をみんなに
摂らせながら、さりげなく今日の体調をうかがう。大丈夫のようだ。
 思ったとおり、何の問題もなくみんないつも通りの時間に出ていく。


 大急ぎで茶碗を洗い、洗濯物を干し、身繕いをする。昨日のうちから
用意していたあの青いバッグを取りだし、家に鍵を掛けて出掛ける。


 駅に駆け込み、特急電車の自由席に乗り込む。予想通りだ。この季節
でも、平日ならそんなに混んでいない。隣の席にバッグと脱いだ上着
置くことも許される程度の列車のなかで、やっと一息つく。しかしながら
同時に新しい緊張に襲われる気がした。


 誰にも内緒の一人旅だ。行き先は特急電車で2時間ほどの小さな温泉町。
しかしながら、今回は温泉に入る余裕などはないだろう。また、このごろ
流行っているその町は、温泉に入らなくても充分楽しめるほどに、観光
スポットもレストランも、ちょっとした美術館も揃っているようだった。
 独身の頃に行った時にはまだひなびた田舎の風情を残すちいさな町だっ
た。趣味のいい旅館が何件かあり、その敷地内にある喫茶店やお土産店が
知る人ぞ知る名所になっていた。


 結婚してからは・・そう、数年前に一度行った。家族旅行の途中で、
ちょっぴり立ち寄ったのだった。以前行った時とはうって変わって大勢の
観光客が目新しい店に詰めかけていて、何だかちょっと違う町になったよう
な気がした。子供連れでもあったことだし、大層なレストランにはいるのも
憚られ、その辺の店でうどんかそばでも・・と考えたのだけれど、その辺の
店に、適当に入る、ということがかえって難しいほどに人が溢れていて、
夫の機嫌がみるみる悪くなっていくのが手に取るように分かった。


 旅は何が起こるか分からないところが面白いのに・・と思う。普段だっ
たら、店に並ぶことも、お昼の時間が狂うことも、確かに不本意なことに
違いない。しかしながら、見知らぬ土地にふらっと出掛けて、予約もなし
に何かをしようとするのなら、上手くいかなくてもご愛敬、上手くいったら
どんな小さなことでも感謝すべきなのではないか?不機嫌になるくらいなら
自分でどこか調べて家族のために予約でも入れておいてくれればよかった
のに・・と思ってしまう。旅館の手配も、旅行の荷造りもすべて私に任せて
いるくせに、そのうえそんな顔をされたのでは、子供よりたちが悪い。


 適当な店にようやく入れてお腹が膨れてしまえば、そんなことはなかった
かのように忘れてしまったようだったが、女の方が男より、つまらないこと
だけは記憶力がいいのだ。それでも、何もなかったような顔をしながら、
胸の中に密かに書き込む。きままな旅は大人だけの楽しみだ。本当にそんな
旅を楽しみたいなら、相手は充分に選ばなければならない。それかいっそ
一人旅がいい。自分だけで、ゆっくりとちいさな旅を楽しめばいい・・。