撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

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 衣替えを終わらせたあと、久しぶりに街に出掛けた。今日は夫は
夕食が要らないといっていたから、デパートで何か美味しそうなも
のでも見繕って買って帰ればいいわ・・と気が楽になる。珍しいケ
ーキでも買って帰れば、ありあわせの夕御飯でも文句も言わないの
が子供というものだ。そう思うと、夕方まで時間はたっぷりある。
一本先の道筋まで足を伸ばして、以前何度か覗いたことのある、セ
レクトショップの扉を開けてみた。


 自分の工房を2階に持つ、小さなビルに入っている小綺麗な店だ。
前に一度商品を購入したら、律儀に年に数回、セールなどの案内を
送ってくれていて、そのたびに顔を出してはいた店だった。しかし
ながら、その頃に接客してくれた女性が家庭の事情だかなんだかで
いなくなってから足が遠のいていたのだった。


 店を見回した。相変わらず、多すぎもせず、かといって淋しかっ
たり、もったいぶった印象を与えたりするほど少なすぎもしない
商品たちが、大切な作品のようにディスプレイしてある。自社ブラ
ンドの洋服に加えて、国内外のメーカーの着やすそうなTシャツや
カットソー、アクセサリーや小物たち。あと、冬に向けて、ブーツ
や、革製品、ちょっとしたファーなども置いてあった。


 ひときわ高い木の棚の上に、鮮やかなブルーのバッグがあるのが
目に留まった。子供が書いた青空の色の絵の具で染めたようなブルー
だった。


「いい色でしょう?
 イタリアのメーカーのものなんですよ。
 兄弟ふたりでつくっているという
 注目しているところのものなんです」


 店の女性が、わたしの視線を見逃さずにそうななめ後ろから囁いた。
私が何気なさを装って振り向いた時には、もう、棚のうえからその
バッグをとる準備をしてくれていた。そして、私の方へ確認するように
笑顔で視線を合わせると、そのバッグを私の手に預けた。


 何だか、赤ん坊を預かったように、ぎこちなく、けれども少し幸せな
気分になった。随分久しぶりの感覚を思い出した。雨には濡らせないし、
下には置けないし、何だか手が掛かりそうだ・・と思うのも赤ん坊と似て
いる。そう思ったら気づかずに微笑んでいた。


「実は私もそれすごくほしかったんですよ。
 でも、このあいだボーナス払いでひとつ
 バッグ買っちゃったし・・ちょっと悔しい・・」


 意識しているのかいないのか知らないけれど、店員はそんな話を無邪気
にしている。私はよその男を欲しがる趣味などないけれど、自分以外の誰
かも評価しているものを自分だけのものにするという欲望は人並みには持
っている。選ばれることに幸福を感じる女も世の中には多いと思うけれど
自分もまた選びたいという密かな欲望があることに自分で気づいている。
だからこそ男のその気持ちが分かる。綺麗でいい娘なだけでは駄目なのだ。
何かしら、ひとが欲しがるものを持っている女でなければ、衝動を起こす
ほどの魅力にはならないのだ。


 かくして、私は青いバッグを手に入れた。別に若い女に張り合って奪っ
たわけではない。正直に言えば、その吸い付くような革の柔らかさに触れ
た時から、もうそれは覚悟していたのだ。持ち手まで同じ色の革で作られ
た小ぶりのボストンバッグ。一泊の旅行くらいになら連れていけるし普段
街に持っていったとしても不自然でもないというほどの大きさ。


 ああ、そうだ。どうして今ごろピアノの発表会の日のことを思い出した
のか今になって分かった。あの日、初めて入った喫茶店で、見知らぬ男性
が傍らに置いていた旅行鞄がなんとも印象に残っていたのだった。柔らか
そうな革を、きっかりと形作ってつくられた小ぶりの旅行鞄。何故かその
形には、余計なものは入れないという意志が込められているような気がし
た。自分で選んだお気に入りのものだけを持って、自分で選んだ場所へ何
処にでも行けそうな・・そんな気がしたのだった。


 私はこのバッグを持って何をしたいと思っているのだろう。詰め込むに
は、大した大きさもないし、柔らかすぎる革は中身も選ぶだろう。要るも
のを厳選していれなくちゃ・・そんなことを考えながら包んでもらう。


 バッグの入った紙袋を車の後ろの座席に大切におくと、そのまま家に帰
ってしまった。しょうがないなあ・・今日の夕食は子供達の行きたがる店
に食べに行くとしよう・・。まだ空は青いままなのに、自分だけのブルー
を袋の中に詰め込んだ私はもうそれ以上何も欲しくない気分で、家への道
を何故か、はやる気持ちを抑えられずにハンドルを握っていたのだった。