撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

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 昼食を済ませてホールに戻って来たときには、午後の部がもう始
まっていた。分厚い扉をそっと開け扉に近い一番後ろの列の端っこ
の席にそっと座る。ステージではピンクのワンピースを着て、短い
おかっぱの髪にリボンをつけた女の子が拍手をもらっているところ
だった。小学校に上がった頃かしら・・うちの美咲にもあの頃には
可愛いワンピースを選んでいたものだったわ、と思い出す。発表会
の何週間か前には、必ずデパートに出掛けてああでもないこうでも
ないと、小さいなりのこだわりを損ねないようになんとか親の都合
とつきあわせながら洋服を選んでいたものだった。多分、あの頃は
あの洋服選びもピアノの発表会の楽しみのうちに含まれていたんだ
ろう。その楽しみに先に飽きてしまったのは娘だろうか私の方だろ
うか。女の子というものはシビアなものだ。いつまでも夢を見てい
る一方で、その夢が叶うものか叶わないものか心のどこかでしっか
り分かっている。夢見るだけで幸せでいられる種類の人間もいれば
叶わない夢など自分を苦しめるだけなのだと冷めた瞳を隠し持つ種
類の人間もいるのだ。特に子供は、目の前の狭い世界が自分の総て
のような気がして、自分が「可能性」というとてつもない大きな宝
物を持っていることに気づいていないことがある。時にそれは大人
をイライラさせる。ことに同性の大人が羨望すら感じかねないこと
に、彼ら子供は気づいていない。


 娘は今年の発表会には真新しい制服を着ていった。娘がそうした
いという提案をしたときに、あなたたちの一番の正装だものね・・
と言った私の言葉を彼女はどんな風に受けとめたのだろうか。


 ステージから伝わる空気がピンと張りつめた。思わず顔を上げる。
ごくごく薄いペパーミントグリーンのストンとしたシルエットのワ
ンピースを着た女の子がピアノの前に座るところだった。ハイウエ
ストの切り替えにぐるりとまわったモスグリーンの細いリボン、背
中にちいさく結ばれた蝶々結び、そして長く垂らされたそのリボン
の端がかすかに揺れている。


 聞き慣れた音楽だった。「スケーターズ・ワルツ」。ゆるやかに
始まる旋律が心地よい。まだ小さいのに・・驚いてプログラムを見
ると小学3年生だった。うちの悠介と一緒だわ・・と驚く。小柄と
も言えるその女の子が大きく見えた。いや、大人びて見えた・・と
言うべきか。小さな女の子がピアノの発表会で弾いている、という
のを超えて、この音楽を楽しんでいる自分を感じていた。滑らかな
始まりも、煌めく音の動きも、私レベルの音楽好きには充分すぎる
ほど鑑賞に堪えうるものだった。


 と、そのとき、突然に音が途切れた。何か起こったのだろうか?
特に何があるともいえない曲の部分で、その女の子の指が突然とま
ったのだ。弦(いと)がきれたように一瞬の静寂。焦っているのが
わかる。一瞬、自分でも何が起こったか分からないように呆然とな
り、それから自分が今どこを弾いていたのか必死で思いだそうとし
ているように見えた。会場の中にもそこはかとない緊張と同情が混
じったような空気が流れる。


 私はどうしても同情など出来なかった。いままだ緊張のため身体
のすべてが固まっているような気分でいる。いくつか空席を挟んだ
隣の席のほうから、小さな咳払いが聞こえる。私は、片手で膝に置
いたバッグを押さえ、右手は軽く握った形のまま人差し指の側面を
くちびるにあてがい、その緊張をこらえていた。どうしてだか、こ
の緊張を自分のことのように一緒に支え持っていた。


 どれほど時間が経ったのだろう。これでもう世界が元通りにはな
らないのではないかと思えるほどに永かった。何度か試すように曲
のつながりを弾いて、そして女の子は顎をちょっと上げてからもう
いちど鍵盤に視線を戻し、何事もなかったように曲の続きを弾き始
めた。少しぎこちなかったのも8小節程度で、曲が終わる頃には、
始めに弾き始めた時と同じような音の煌めきで曲を終えた。


 どうしよう・・どうしてなんだろう。私はいきなり涙が溢れてき
てそれを抑えることができなくなっていた。隣の方からは、脚を組
変える気配が伝わる。気づかれているのかしら・・変に思われるか
しら・・。そう頭の中によぎっても、席を立てばもっと不自然なこ
とになりそうだし、あたりが暗いのを頼りに知らない振りをしてい
るしかない。下を向いて、自分のことを何とかすることばかり考え
ていた。なんどか気配を感じたあと、となりの人は席を立っていっ
た。下を向いたまま顔を傾けてそちらを見ると、発表会に出ている
子のだれかの父親かと思えるようなほどの男性だった。