撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

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 その日は娘のピアノの発表会だった。出番は、十時から始まる
それの午前の部の半ばあたり。お昼休みを一時間挟んで、午後の部
が四時頃まである予定らしい。ピアノの先生が何カ所かでお教室を
開いてあるので、顔を知らない人たちも同じホールに行き交うこと
になる。


 自分が好きで始めたピアノではあるけれど、どうもそれひとつに
情熱を傾けるほどでもない娘は、発表会用にもらった曲があまり気
にいらないようで、しかしながらそんな文句もつけられない自分の
ことも分かっているようで、そそくさと演奏を終わらせると、もう
帰りたいと言う。最初から連れて来られて迷惑そうに、ポロシャツ
の衿が暑いと何度も訴えていた弟ともども、正直ほっとしている顔
の夫に連れて帰ってもらうことにした。


 中学生ともなると、ピアノの腕前もかなり差がついてくる。一握
りのとてつもなく上手い子と、こつこつときちんと仕上げていく子
と、あとは小さい時の貯金があるのか、そこそこのセンスはあるの
か、ひどいことにもならないかわりどう咲いていいのか分からずに
下を向いたままのつぼみのような子・・。もちろん、小学校までで
やめてしまう子もそこそこいる。受験の用意がはじまる頃には大多
数の子がやめていくことだろう。趣味程度でいい・・と言いながら
趣味に終わらせようとする子にレッスンを受け続けさせる親の数は
今の日本ではそう多くない。娘も中一・・この発表会も来年がある
とも限らない。多くてもあと二回・・?


 発表会があっているホールの入っているビルのほど近くに昔から
ある喫茶店がある。いつも車で通り過ぎながら気になっていた店だ。
歩いて通っていたころは、仕事中だったり、仲間と飲んでの帰りが
けで営業時間外だったり・・だった。ひとりの時間が突然できた私
は、その喫茶店で昼食をとることを思いついた。ひとりその場所へ
向かい、その入口で確認するようにひと呼吸してみた。それから、
思いきって扉を開けた。一歩踏み込むと、そこはほんのり薄暗くて、
ひんやり心地よい空気に包まれた。様子をうかがいながら促された
席に座った。5、6席あるカウンターには店の誰かの知り合いと思
われる若い客がひとり。奥のボックス席にはスーツ姿の男。横に置
いた小ぶりの革の旅行鞄がちょっと趣味がいい。


 メニューをゆっくりと楽しんで・・といっても固い表紙が付いて
いるだけで見開き2ページしかないのだけれど・・Bセットというの
を頼んだ。フレンチトーストとサラダとコーヒーまたは紅茶。自分の
家でもフレンチトーストなどあまり食べはしないのだけれど、今日
は、この喫茶店に入ったことも、フレンチトーストを食べることも
私にとって冒険なのだ。そんな気分でひとり落ち着かずに座っていた。


 ひとしきり店の様子をこっそり眺め回して、することがなくなっ
たので、意味もなく携帯を取りだして来てもいないメールボックス
を開いて時間を潰す。なるほど、何もしないよりはそれらしくて、
文庫本などを取りだして読むほどは特別じゃないところが都合が
いいかもしれない。のべつ幕なしに携帯を扱う若者は、何もせずに
人前に晒されることに耐える訓練をしない前に携帯に出逢ったこと
が悲劇なのかもしれない。


 まもなく目の前にやって来たフレンチトーストは冒険を楽しいも
のにしてくれた。一斤の半分の厚さもあろうかという食パンの耳を
きれいに落とし、半分ほどの大きさに切ったほどの大きさ。たっぷ
りとミルクと玉子の液をつけてこんがり焼き上げられたそれはシン
プルなケーキのようにも見えた。上にふりかけられたグラニュー糖
の粒が甘さを抑えたトーストに丁度いい。あまり玉子っぽくないと
ころも好きだ。サラダは昔風の木のボールにたっぷり。なにより嬉
しかったのは、コーヒーに添えられていたのが、ポーションの植物
性ミルクもどきなどではなく、氷水の張られたそれ専用の器に入っ
た、ホイップした本物の生クリームだったことだ。もう、携帯はバ
ッグの中の定位置に戻しゆっくり食事と店の雰囲気を楽しむことに
した。