撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

2 要るもの要らないもの

 衣替えをしようと、衣装ケースを部屋中に並べてうんざりしてい
る。自分の洋服、夫の普段着、子供達のもの・・。今年はずいぶん
夏の暑さが続いたけれど、何だか急に冷え込みそうだ。かといって
昔のように厚手のセーターを着て外出するなんて機会はめったにな
い。とはいうものの、お気に入りのアラン模様のセーターを処分す
る気にもなれないし・・。かくして、真夏用の箱をひとつつくって
しまい込み、秋物をタンスに移動させたあとに何枚か残る捨てきれ
ないウールに今年も防虫剤を放り込み蓋をしめてしまい込むことに
する。


 世の中では、捨てる術だとか、収納方法だとか、挙げ句の果てに
は、掃除をして幸せになる方法などが大活躍している。それだけ、
悩んでいる人が多いのね・・とおかしくなる。


 溢れていくもの、流され続ける情報、すべてを手にいれられない
ことは分かっているはずなのに、目の前を流れていくものが、すべ
て自分に必要な気がして、手に入れたものを味わうことをせずに、
手に入れられなかったことに不安を感じることばかりに時間を費や
している・・・。家の中で家事をし、子供を育て、いくらかの趣味
に時間を費やして・・。必要なものなどそうありはしない。手に入
れてみたいものと、要るものとは全然別のものなのだ。しかしなが
ら・・手に入れてみたいものの中に自分に必要なものがあるかも知
ない・・という漠然とした想いがあるからこそ、ひとはこんなにい
ろんなことに力を注いでこられたのだろう。私だって、まだ自分に
とって何が必要で何が要らないのか・・本当のところはわかってな
いのだ。そう、自信を持って選べるのは、せいぜい目の前の衣装ケ
ースの中身ほどのものなのだから。


 手に入れてしまったものですら、要るものと要らないものに分け
る必要があるのがあることを男や子供は知っているのかしら?毎日
同じようにある、食器や衣類や部屋の佇まいが、ずっとそこにその
ままあるわけではなく、ごくさりげない主婦の仕事で維持されてい
ることに気づいているのかしら?お茶碗を洗うことは知っている。
洗濯物を洗って乾かして畳むことも知ってはいるだろう。しかし、
日々増える書類や雑誌やちょっとしたいただきものやら、使わなく
なったおもちゃ、小さくなった子供服、古ぼけた下着や靴下やタオ
ル、日常のありとあらゆるものが、そのままそこにいるだけでは、
どんどん増え続けて、形を変え、居場所を浸食するほどのものにな
っていくことに気づいているのだろうか。24時間わたしが何も手
を出さないだけで確実にこの家の中が荒れていくのを知っているの
は、私だけなのではないかと小さな不安を持っている。


 しかしながら、この家の中のことをすべて動かしているというこ
とは、私の大きな安心感になっているということも感じないではな
い。要るものと要らないものを選ぶという行為は、どこか上に立つ
人間の優越感のようなものを満たしてくれる。しかし一方で、その
ことだけで自分の生活のほとんどが使われている・・ということに
耐えられないときもあるのだ。要るものは使って、要らないものは
捨てる・・当たり前のことなのだけれど、それにいかに多くの人が
悩んでいることか・・。役に立つ私は必要な人間。しかしながら、
このぼんやりともの思いに耽って手をとめている私はいったいどん
な人間なのだろう?


 要るものをきっちりと納めてなおゆったりと余る空間。何を入れ
ても構わない・・そこに何をいれようかと思い描ける余裕。それを
今の私は欲しがっているような気がする・・。「要るもの」だけで
おわるのではなく「本当に欲しいもの」「本当に大切なもの」・・。
 本当に・・・というそれがいったい何なのか分かるまでは、それ
を納める場所がどれだけいるのかも分からず、何だか不安を抱えな
がら、とりあえず欲しいものを手に入れては、要らないものを捨て
ることを繰り返していくような気がする。


 頭の片隅で、または心の奥底でそんなことを考えながら、もうひ
とつの意識では今晩のおかずは何にしようかしら?などと冷蔵庫の
中身を思い出したりしながら、中身を入れ替えられた衣装ケースを
何もなかったかのように元通りの場所に運んだ。ちいさなため息を
ひとつつく。もう多分着ることのないセーターをとっておくほどの
権力と余裕。今のわたしが持っているものはささやかながら幸せと
呼べるに違いない。しかしながら、その吐息が短く乾いていたこと
に気づいてしまう自分、それに何かを感じてしまう自分がいること
が、幸せなのか不幸なのかは、今の私には分からない。