撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

自分であること(さくら)

 ロビーに別れを告げられたさくらは、どうしていいのかわからないほど
ショックを受ける。日本に来てからさくらは変わった・・とロビーに
言われ、元にもどるからやりなおそうと言えなかったことも自分でショック
を受けている。


 人は日々変わっているのだ。さまざまなひとと出来事に出逢い、日々
変わっていくのだ。自分であるということは、自然に変わっていけると
いうことでもあるだろう。そして、一緒に生きていくということは、
お互いに影響を与え合い、一緒に変わっていくことであるとも言えると
思う。意識するかしないかは別として・・。


 ロビーはさくらのことを見ていたからこそ、自分とは与え合えなかった
影響をさくらが他の人と与え合っていることに気付いたのだろう。そして
そのことによってさくらがなんとも魅力的に深い人間になっていっている
ことも・・。桂木先生のことを「サムライ」と最初に言ったのはロビー
だった。そしてサムライにひかれていたさくらを知っていたのも・・。


 未来が見えたからこそ、さくらと別れを決心したのだろうと思う。もし
さくらがそのことに気付いたら、さくらがどんなに悩み苦しむか分かって
いるからこそ・・。自分が悪者になったほうが、愛する人を苦しめるより
ずっといいから・・。ロビーもまた我が身を切り取られるほどに苦しんで
いるのだろうと、今回観て初めて分かる。


 そして、自分の心に気付いてしまった桂木先生。どんなことより、その
自分のさくらへの感情に驚き、うろたえ、どうしたらいいのか分からなく
なりそうになっている。さくらは、傷ついたこころを抱え、それでも
ようやく顔を上げ、いままでどんなに暖かい桂木に守られてきたかその
やさしさをただ素直に懐かしみ、必要としている・・・。


 淋しいときに気付く恋心はともすれば錯覚を伴う悲しい恋のときもある。
しかしながら、ずっと大事にしてきた想いに、それを渇望するときに気付く
ときもある。恋心はいつもどこかで密かに息づいている。硬い種のまま終わる
こともあれば、花開く直前の瑞々しいつぼみになり初めて気付くときもある。
なんども枯れかけ、倒され、それでもいつか花開くこともある。


 何もなしに、ただ出逢い、ただ恋におちれば、運命の出逢いとも感じる
ベストカップルに思われる二人でも、そこに至る道のりにいろいろな出来事
や関係が障害のように横たわっていれば、若いからこそ、本当は誰に憚る
こともないからこそ、その自分の心のなかでこの恋を許せるかどうかが
ふたりにとって大きな問題になることもあるのだ。


 それでも、咲く花は咲く。実る実はいつか実る。さくらの父が「ひとが
成長するときには痛みを伴う」といった言葉は深いと思う。前を向いて
笑顔で歩いていける日がきっとくると信じて見守りたいと思う。