撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

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 「美卯ちゃんは・・」
 と、声を掛けられて耳たぶがくすぐったくなった。もう、30も
越えたことだし、新しく知り合った人にちゃんづけで呼ばれること
なんてもともと滅多になかった。仕事関係は名字で呼ぶ。親しい友達も
大抵は名字からつくったニックネームで呼ぶ。私にとってその名前は
親と、ごく限られた人だけが使う、特別なものになっていた。
 滅多に呼ばれないその名前で呼ばれながら、不思議と落ち着いている
自分がどこかおかしい。こんなまだよく知らない男の人の隣で!


 男は簡単な自己紹介をした。名前(これはこのあいだのメモにあった)
と、どんな仕事をしているかと・・というより、突然電話がはいって
しまったことに対することわりに近かったが・・。


 この車の助手席は快適だ・・何故かすっぽりと包まれてそこにいる
ことが不自然でなく思われてしまう。仕事にも使う車らしく、無造作に
茶封筒やコピー用紙や何かのパンフレットなどが置かれたり挟まれたり
している。その割には仕事用のような堅苦しさやよそよそしさはない、
この男プライベートの車だと感じられるが、生活の匂いはしない車・・。


 なんの話題・・というわけではないが、話続けているうちに、高速
道路はいくつもの道路標示を越えた。そして、そのひとつの出口を抜け
一般道路に降りる。見たことのない景色。少し不安を感じたら、その
気持ちをかき消すように海岸線があらわれた。
「もう少し先までいくよ」
男はそう言って滑らかな運転を続ける。


 きっと私は子供のようにはしゃしでいたに違いない。どうして?どうして?
と、疑問に思いながらも、どこかで何も聞かずに、何も考えずに助手席に
乗っていられることが嬉しくてたまらなかったんだ。日々の中には、小さな
賭けがつまっている。この男についていく・・という賭けは、見方によっては
かなり危険な賭けなのかも知れないけれど。人を信用する・・という賭けは
賭けるひとの心次第でその確率が変わるとも思っているから・・。心を
決めて車に乗り込んだのだろう・・・と思う。