撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

やさしい声を出すために

 朝起きたら、喉が張り付いたように痛かった。喋りたくないわけじゃ
ないのに喋れない時って、ちょっとつらい。


 一番に起きた長男は、声の小さい私にどうしたん?と言いつつ、わけを
話すと、そこそこ最小限しゃべって出ていった。次に起きたダンナは
やっぱりどうかしたの?(声の小さい私ってそんなに不自然なのか!)
ときいてそう・・というもののおかまいなしに喋る・・はぁ・・。
 まあそのダンナが犬の散歩から帰る頃には声が出るようになってたので
良かったんですけどね。


 声が出なくなることを考えると、妙に声のことに気がついてしまう。
今朝、NHK BSで、たまたま聞こえた元NHKアナウンサーのかたの声。
随分久しぶりに聞いたら、その分かりやすさは変わらないけれど、声の
響きがだいぶお年を召したなあ・・って思ってしまった。渋い声や、枯れた
趣は年と共に出てくるけれど、力のある張りのある声とか、甘い余裕の
ある響きとかは、その年その年で変わってくるのだと思う。


 御自分の対談番組を持ってらっしゃる某ご婦人も、若い頃は早口な話し方
と、抑えきれないほどの物事に関する好奇心と、ちょっぴり世間離れしている
いつまでも新鮮さを感じさせる受け答えが、マッチしていて好きだったけれど
その無邪気さが薄れると話し方自体はそんなに好きでなかったことに気が
ついていつの間にかその番組を見なくなってしまった。活動してらっしゃる
いろいろなことに対しては、すごく尊敬しているけれど・・・。


 声が出なくなったら、いろいろ不便だろうなあ・・と考えてはいた。伝え
たいことがすぐさま口に出来ないことはとても辛いことだろうなあ・・と
思ったこともある。


 でも、そのなかでも何が一番辛いって・・・


 用事は書いて伝えてもいい。考えはゆっくり文章にでもしよう。怒鳴ること
なんかなくても相手のほうはうれしいかもしれない。愚痴もそう。


 愛する人に、やさしいこえを聞かせられないのはどんな淋しさ?淋しい
ときにわたしがいるから・・って言えないのはどんな淋しさ?逢えるひと
ばかりでなく、逢っても抱きしめられるときばかりでもなく・・。やさしい
声をだすために、ひとは言葉を持っているのだと思いたい。