撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

 9

 その日、朝から迷っていた。会社に出掛けなければならないことは
重々分かっているのだけれど、どうしても行く気になれない。この2カ月
というもの、ずっと行こうか行くまいか迷っていた絵画展が、今日まで
なのだ。お休みをとって一日・・と思っていたのに、同じ課の女の子たちが
風邪だのなんだのと、急に休みをとるものだから、仕事を片づけるだけで
精一杯で、有給の用紙を手配する暇もなかった。・・・などと自分に
言い訳をしながら、休みの連絡をいれる。どうしても体調が悪くて・・
などと芝居をしながら、心の中では、そうよ、からだってのはこころも
あたまもつながっているのよ、休ませないととんでもないことになるん
だから・・などと勝手な理屈をこねている。こころは、今日行かないと
前に進めない・・・と、また別の悲鳴をあげているのだ。


 その美術館は高台にある。わたしの住んでいるところからは、少しばかり
遠い。日常からははみ出し、旅というには大げさな距離だ。電車を降りてから
美術館行きのバスに乗り継ぐ。バスを降りてから、少しばかり急な坂道を
歩く。風が冷たい。


 2時間ばかり、その美術館にいた。最後は、椅子に座って、窓越しに
見える庭に置いてある作品を眺めていた。あの像はなにひとつ変わっていない。


 暖かかった建物をでてバス停に向かう。坂道は上りよりも下りの方が
嫌いだ。すぐバスがくれば、走って乗り込むのに・・と前のめりになりながら
坂道を歩く。


 私のすぐ横に車が止まる。ウインドウを開けてこちらに話しかけるのは
あの男だった。ほんとうに息がとまりそうだった。偶然にしても程がある!
「電話くれなかったねえ」と話しかける。だって・・とわたしが言いかけると
後ろで車のクラクションが鳴った。追い越すには狭すぎる、美術館の敷地の
なかの道だ。「乗って!」その声に、逆らうことも出来ずに、思わず急いで
助手席に乗り込む。どうしよう・・そう頭で考えているくせに、わたしと
いえば、その車の程良い暖かさに、なんだか心地よさを感じてしまっていた。