撫子の花びらたち

すべての出会いは幸せのためであってほしい

憧れの・・・(芋たこなんきん)

 お見合いの話がすすむ鯛子、仕事を終え、健次郎に見送られながら
病院を出る。そのとき、何かを決心したように振り向き、健次郎を
見つめる。前に、憧れてるひとがいるって言ったでしょう?あれ・・
先生のことなんです・・。戸惑いの色を見せる健次郎・・言葉をなくす。


 見つめ合うふたり・・・ってわけじゃなくて、鯛子ちゃんが、緊張を
破るように・・いえっっていうか、先生と町子さんの関係に憧れて
いるんです!って明るく続ける。健次郎さんびっくりした?ちょっぴり
ドキドキしてうれしかった?


 鯛子さんのこころは、真実で真実を隠したかもしれないな。多分、
先生のことはずっと好きだったんだろうな。でも、町子さんとの関係が
好きだというのも、本当の心なんだろうとも思う。あれは、何の時だった
だろう?町子が「(仕事を)頑張ってる女のひとに可愛げを感じられない
ような男は、化石みたいなものだ」とかなんとかいってたときに、鯛子
ちゃんも、そうとも!というようにガッツポーズしてたのを覚えています。
晴子さんにしても、鯛子ちゃんにしても、その町子さんのスタンスは
とても心強いものだと思う。そして、その町子さんと健次郎さんが仲良く
しているのも、とても憧れ、希望を感じさせるものだと思う。男と女が
お互いにお互いの仕事を尊重しあって、その上で男と女として人間として
いい関係をつくっていること。あの時代にそうそうあるものではないと思う。


 しかし、本当のところあの時代と時代は変わったのだろうか?とふと
考える。男は何かを誉めるときに、他の何かをけなすという手段をよく
使う。何かを二つに分けるとき、敵対させるということをよくする。


 専業主婦は、高度成長期の猛烈サラリーマンを支えるのにとても都合が
良かったことだろう。国民健康保険の経営が厳しくなった頃、厚生年金から
資金繰りをするかのように何も頼まないのに主婦の分の年金を厚生年金から
出すように制度を変えたくせに、その年金さえ苦しくなってくると、まるで
専業主婦が国のお金を働かずに使っているような言い方をする。いつも女性を
グループ分けして対立させて、本当に考えなければいけないものに焦点が
合わないようにしているような気がする。女性よ目覚めよといわれた時代から
それは大して変わっていないのではないかと思う。男と女の決定的な違いは、
男は知らないうちに「弱いものいじめ」が出来てしまうことだ。だからこそ
卑怯なことをするな、女の腐ったようなやつになるな、と厳しく言われて
いたのかもしれない。男の強さ故の弱さを昔の男は知っていたのかも
しれない。(女は普通腐りません・・・念のため)


 日本の良さを考えるときに、アメリカをそのまま真似しても上手くいくわけ
ないように、男と女の社会を考えるときに、男社会をそのまま考えても上手く
いくとは思えない。男が上だとか、女も負けてないとかいう時代はそろそろ
おしまいにしていいのではないかと思う。男がダメだから女がやらなくっちゃ
というのも、それは担い手が変わるだけで行き詰まるのは同じ事ではないか
と思う。自分の優れているところも、自分の弱点もきちんと分かったうえで
相手のそれも分かったうえで、補い合う、伸ばし合うのが本当のいい関係では
ないのか?


 女が子供を産む機械などではないように、おとこだってお金を産み出す機械
でもないはずだ。そんな心ないことを言えるひとは、そんなことを言っている
と自分も使い捨てられ、切り捨てられるただの機械にされてしまう怖れがある
ことに気づかないのだろうか?


 生きている人間でいたい。血の通った暖かい関係を築ける人間でいたいと思う。